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2006.11.06 / 「塵は窓を通過する」--4

■シミュレーショニズムが見落としたもの

それでは、これまで述べてこられたお話を、より今日の状況に引き寄せて考えるとすれば、どのようなことが言えるのでしょうか。

おそらくそれは、「記号」をどう捉えるかということに関係するでしょう。並置、代入、転用等、あらゆる方法で「記号」を酷使したブルトンは、それが差異の体系であることを承知していながら、むしろ記号が、解読や使用によって生き成長し、ときに頽廃することもあるような生命/生成過程を持つという点こそ、重視している(「名は芽を出さなければならない。芽生えがなければ、それはうそだ」)。
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(13:41) / 未分類 / TB(0) / CM(1) /

2006.11.05 / 「塵は窓を通過する」--3

■「客観的偶然」をめぐって

北川さんは現在、四谷アート・ステュディウムの芸術・制作ワークショップ岡崎乾二郎ゼミの自由応用クラスで講師も勤めてらっしゃいますが、その授業の際に、様々な実験をしたときに得られる感覚や経験と、それをプレゼンテーションする枠組みは、どうしても簡単には一致しない、ゆえにいかにして両者を接合し束ねるのかが必ず問題になる、という話をよくなさいますね。それは多分、ご自身の制作を省みて話されているのだと思うのですが、例えばシュルレアリスムの《互いのなかに》という、集団で行う実験=ゲームがまさに、そのエクササイズとして判り易い例だと思います。

どういうものかというと、まず参加者のひとりがグループから出ていって、演技するときのように、自分に何かある設定を下す。自分は例えば「階段」だ、と心に決めて、他方で彼がいないあいだに他のメンバーは、彼に「シャンペンの瓶」として自己紹介してもらおう、というふうに設定を決める。そして彼は「階段」としての自分を演じ描き出しつつも、しかし他のメンバーの前では「私はシャンペンの瓶ですが」と自己紹介しなければならない。丁度スパイみたいに自分を二重化して、他人にプレゼンテーションする自分と、それとは別に自分が定めた規律を一致させることなく共存させるというか、そういうゲームをするんですね。


シュルレアリスムの要となる考えとして、芸術が、ただの主観的な幻想を語る「自己表現」なのではなくて、少なくとも二重性を帯びた「媒介」として存在する、ということがあります。むろん媒介の設定、機能のさせ方によっては、芸術として成立する場合もあれば、ゴミになってしまうこともある、ということでしょうが(笑)。いずれにせよ、フロイトの精神分析の成果だけでなく、ランボーの認識を自覚的に受け継いだといえるオートマティスムの方法は、「私において他者が語っている」という、ある種の受動性ないし自動性が確保されていないと、それは事件たりえないというのが、やはりポイントになっていますね。それはまた、解釈の多様性・恣意性に対して、作品の単一性・客体性が保持されるのは、媒介するマテリアルがどのようなかたちをとって顕在化するのかによるということでもある。
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(13:37) / 未分類 / TB(0) / CM(0) /

2006.11.04 / 「塵は窓を通過する」--2

先に挙げられていたロールシャッハテストというのは、そこでどのような像が結ばれるのかは、しみを見た人の、見る側の問題ですよね。制作過程では、今仰ったようなシステムをつくるときの判断と、それによって得られる効果を見るときの判断、具体的に一枚の作品として完結したという判断がありますよね。「これ以上はもう重ねられない」とか「これはまだ重ねられる」とか、あるいは「これは失敗だった/成功だった」というように、最終的に見て判断されるわけです。制作行為を完了し決定するその基準、どこでそれを終えるのか、という問題もまた、「外部性」に関わる問題だと思うのですが、その点についてどのようにお考えですか。

制作行為の完了の決定不可能性という問題を、例えばマルセル・デュシャンは極めて巧妙に展開しました。代表作である《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》は、「ガラス製の遅延」とメモに記されているように、制作が完了したという判断を延々遅らせる。自らの意図外の出来事として、たまたま起こったガラスの破損によって一応終了をみるものの、それは作品自体の解体という別の意味での「終了」なわけです(笑)。他方で、レディメイドの諸作品には制作過程がない。既製品を選択するという判断のみがある。
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(13:25) / 未分類 / TB(0) / CM(0) /

2006.11.03 / 「塵は窓を通過する」--1

以下のインタヴューは、「Dust passes through the window」展のために制作されたリーフレットに掲載されたものです。

■制作において外部性をいかに確保するか?

今日は美術家の北川裕二さんに、近作を中心にそこから派生して現在の関心事を色々とお伺いしようと思います。まず始めに、北川さんがここ数年制作していらっしゃる平面作品について、特にその制作方法の問題から、お話をしていただきたいと思います。
 
僕の作品は、シュルレアリストのオスカル・ドミンゲスが発明した、デカルコマニーという技法を発展させたかたちでつくられています。デカルコマニーとは、ロールシャッハテストのように絵の具を塗った二枚の紙を合わせて開くと、左の図形と右の図形が相似形をなす、というものです。とはいえ、この方法自体はひょんなところから、それこそ偶然に発見したものでもあります。小さなスケッチブックにオイルパステルを使って描いていたのですが、あるとき紙の両面がくっついてしまった。それを剥がしてみると、色が写り込み、転写されていたのです。

でもロールシャッハテストとは違って、塗った方の紙の色がもう一方の塗っていない方の紙に写るんですが、そのとき元の方が剥げた形になり、ちょうど彫刻の雄型と雌型のように、ポジとネガに分かれて写り込んでいた。つまり、その写り込み方がある種の鏡像関係、写像関係になっていたのです。「これは何かあるな」と直感し、それから色々模索して拡張していったのが今の作品です。
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(09:36) / 未分類 / TB(0) / CM(0) /
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